ホワイトデーか。おめでとう。
昼が、10時半かいま、なんかそんな時間管理になりがちな
今朝のコーヒー
イギリスだかの、フレーバー
インスタント
ぬいぐるみにやさしくしたくて、微妙につぶれ具合でも大丈夫みたいなのだが、だめだから距離とって、逆にだめっぽい距離感でも大丈夫なときもあったら、お互いだめだとおもってるけど大丈夫な距離感にきづかされた
その、第三者的な対話性のセンスとは
、、こうしたことって生活的に身近すぎて意識化して言語化されなかったりもするが
最近は
ウズメという用語をしり、
usというテーマモチーフが自分の文学でもあったりして
'私たち'とか'私'とか。固有のだれかのことではなく、人称とかの認証の格をテーマに扱うのだけど
女性型の複数系でusメとか、この場合の認識のタイプでいうと
女性型っていっても何を女性性としているのか形式差あるが
昼休みついでにブログ書きつつ
ライフワークとかみながら、ライフという言葉だけでその意味を補えていたのでは、とか考えだすと、それまであたりまえなことがぬけおちてのことである修正てあるのかもなあ
でるくいとしてうたれ、きちんと機能できて嬉しい自分をおもいながら
要らん場所にいたらぬかれてべつばしょで活かされたくもあるものかなあ
物心ついたかも
わる者にわるい物として使われるのは悪いことだろうかなあ、そして、いい者にいい物として使われるのはいいことだろうか
わたしは物を使うが、物のキモチがわかったから、フェアであるのかもしれない
曲解されるとすれば、'ひとをものあつかいするな'という角度の見方だろうが、その場合には、ヒトに対してもモノに対しても優しくないのだろうと思う
リアルなはなし、物質としての生活上のデリカシーが、社会生活上で人間として必要だ。それは命や心をテーマにしなくていいということではなく、