RUMIKAKOBO(center’s blog)

架空の工房日記 wonder for reboot

グレイテストヒッツ(2024.05.10)

プラトンアリストテレスだったかな、がデートしてる絵画を

サルバドール・ムンディでは、理念結合、している説

おもいつつ

 

あとから、自分の日記、題名ごとのテーマまとまりあるのかなあとか思いつつも

自分自分って。。

 

内容をテーマにするときに、てっそくとしてオリジナルにあたること、というのをときには無視したりするのだが

客観的な心理的区画の把握というのが事実どまりでしかない、ということに由来してる

食と排泄のタイミングが真逆だなあという者がいて、これは口から排泄しているという意味でもなく、たとえば侵害的な体力を搾取的に摂取している生命体というあり方が、同じ食生活をしていても始点と終点のちがいといったところのもので、たとえ物的な違いの証明ができなかったところで、客観的な心理面の傍証など生活的に事実でしかない。実生活的に障害となる範囲をどう扱えばいいのだろう。

という時に、ある時点でうちくずす必要がない条件もある。偏った勝ちで勝った者がその勝ちを土台として悪化、自滅していくから。というのも、そういった不道徳な者が自滅するだけならまだしも、という言い方があったりするものだが、まきこまれていく環境があるという最近。

メインテーマが、それらの環境を守るということになる。(普通なら、偏ったあり方のものを、たちなおさせるのが通常だが、選択がありカガイ的な場合)

 

イラストのせるのはやめつつ。

いい環境を探す時に、悪い環境に対してのいい環境というのも、なんか馴れ合いのようなセンスになる、のは、悪い環境の当事者が馴れ合いをモデルにしているから、だと。

とわいえ、馴れ合いなんてあってもいい、

たとえば文化範囲の趣味仲間、とか。じゃあ社会では?

自立した個人の協調というと、またちがっている。だろう。

 

オリジナルにあたらないことにかんしてを、今回はひねくれたかんじで書いたが。

問題は、遡行できるという点。系図、とか、逆もどりしない線分が基本だが、テーマの複合というと、そうでもなくなる。