サルバドールムンデイという言葉をユング自伝だったか、みつけつつ、あれ誰の言葉なんかねえ
クルミの木の節というモチーフが、さながらかぐや姫に思えつつ、ダビンチの、、ダビンチとかとおぼしき絵画作品のはなしのほうへおよぶが。もはやアマビエにみえてくる。
年代の横軸にあかるくない
善の欠如が悪というモチーフは、いつからか快適さの欠如が病であるのだというモチーフへと
このフレーズを正しいかどうかをわからないけど
偶像崇拝の関連をもう少々よみとくと、モーセの十戒とか、像をおがんでいてはならず。社会学条件で、像を自己投影とみなし、偏った主観を投影することでの障害性を同型的とすると、現代的にも、普遍的なテーマにある。たとえば、偏った快適さを追求することで自身が健康を欠如するから、という論点。
このテーマを正しいかどうかをわからない
パターン思考、モチーフ回析、区画整理といった方法を用いてきた。
フリンジ理論・境界科学という用語をしった。
さて、便宜的には、ステパノとサウロのブレンドでパウロといった継続をよみといていこうかとおぼしき。便宜上、十字架上から見上げた地上へのテーマ移行として、言葉どおりによむならキリストがイエスをイエスがキリストをトレードしたことの贖罪を、パウロにおけるテーマ継承におけるネクストとして。
十字架上の三者に対しての被のフレーズは、場面がかわり墓の空にさいしての被とふりかえり他者の場面で5という数値。三者対マリアプラス一つ。
心理的区画という仕様の性質は、移行や継続の可能があり、主に心理的な条件の。文化テーマなどは、明らかにあらゆる逃避行するポップさとか、現代のメディアライフなどであるし。
心理区画というのは、普遍的に誰もが共通のフレーズをうけとれていて課題に扱っている。
その境界があって、不当な投影で、干渉するときには、反作用を得る。
極端な話、欲求のみたし方の問題としては、欲求を満たすのは悪いことだとして他者を侵害すると、侵害で欲求をみたしている。正しい相手は欲求をみたさないだろうという投影があるとしたら、正しい欲求のみたし方をしている者へとそのテーマは及ばない。あてつける内容が的外れでありあてつけるのも的外れだからだ。
文学ながれで図書あさりつつ、スウェーデンボルグとかユングよりいくらか年代前じゃんとかおもいつつ。臨死体験?の冒頭がさながら、墓の復活の立ち合いのモチーフにみえるし。みんなああいう読解どうしてんだろ。
哲学史とかも書くのおいつかん。
自分的には、都市と村と里のモチーフが現代的にあらわれだすみんなの周囲がある気して。自分の経験のながれには、村と都市の相容れなさというモデルが謎で、里が相容れるじゃんと思っている処である。