・前例がないといわれているテーマに前例があった、という前例があった
・偏った物的主観というのは必ず環境という第三者をネグレクトしている、というときに、環境という第三者をネグレクトしているのを偏った物的主観としているのなら、それはそういうことだ。
・あるないという基準が願望がはたらいているときにだけ、はたらいているわけではない。というのは、あるないという基準の意味合いを区別する必要性を見出す。願望がはたらいているということだ。
以上は、少々面倒くさいながらも最近の日記の内容のぶりかえし。
史的イエスを「エリエリレマサバクタニ」という言葉にしぼるとして、「エルサレム。エルサレム・ローマ、サマリア人」。ギリシャ・ローマというふうな言い方をする時には、個人でいう姓名のような凝固をみることもある、また連綿性。
サマリア人という言葉を多様性の意味合いのキーとしての解答だ。
当時のテーマを紐解くものでしかないが。
その後の変容した地上生での私的イエスの足取りは、プライバシーの観点から扱わないけれど。
私は、文学テーマからはいりつつ、論旨を社会学的に範囲をよみといてきた。
聖書のいわゆるサマリアの女のはなしを竹取物語と同型てきととらえ、学ぼうと。
わたしたちや私やあなたのテーマがあって、あなたたちというのは、仏道かなあとおもいつつ。
『調和』ということでのサークル。サークル、円を二つ書くとき少々重ねるとサカナが出来る。イラストやってると同様のモチーフを扱う既存の作品とかあとからしったりもあるが、れきしのつみかさねの上にいるかというとそうでもない場合もある。オリジンに自己が立ち会うということ。
物的レベルや個人的レベルからはなれて、あるいはふまえて、環境を擬人化したときに、各区画の担っている理念やそのマリアージュ他、いろいろある。
誰もがブレンドであり、何から学べるのか。
心理学とか派生的にマンダラをしり。
マンダラをマグダラとしてモチーフ分析してみると、マンダラによる対象への理解のフレーズがマグダラという位置付けという言い方になるのだが。
品性というのは科学的だというマリア性を思った。
現代はgame/news/realという三つが3大関心ワードだろうか
ユダがキスをし、複数がイエス側にとらえられたのち、キリストはどうととのえただろう。
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ユング読んでて、夏目漱石もそうだが、臨死体験にちかいのとかをわりとすることをみる。スウェーデンボルグとか。ツァラトゥストラがやまおりてきたりのはなしをしりつつ。
当時逆に日本のキリスト者とかよむと対比的で。ボーイズビーアンビシャス?みたいなはなしだが。
最近のサブカルでは少年には神話になってほしいみたいだけれども。
ある意味で、サブカルも日本の教会なのだろうか。二次元同人とか、同人誌。
聖書を同人誌というのなら、そういった角度からも紐解いてきた、のだろうか。
文学の歴史や、出版印刷。萌など。