RUMIKAKOBO(center’s blog)

架空の工房日記 wonder for reboot

シンクロナイズドグレイズド(2024.05.02)

モラトリアムを人の子と並置した見方を教わるが

人の子は去っていく、としたときに、続くのが最後の審判とか

時代的にはモラトリアムの時期は、ある時期とっくに過ぎている

以降もケース、個々におけるモラトリアムの者や時期はあるが

仲直りしてハッピーエンドという辻褄で将来設計し悪事をはたらいても実現しない予後があるということだ、つぐなうという観点がない環境のリスクをみた

ゆえに国際的に文化を学んできているのだが

 

現在進行形かどうかの判断があって

基本的には状況をかきかえないという抑制がある

自分から出来事をつくっているのかどうかという絶対値を客観的に判断できないことがリスクになる

それをわかるまでがたとえばモラトリアム。社会人になる大人になるとか厳密な言い方にもないが。

能動性・中動性・受動性でいうと、基本的には環境が間にあり主体と客体

行為を起こす主体がいて、その環境下に、客体としての自己が立ち会っている

主体が、環境というある意味第三者を認めなければ、客体としての他者しかいないことになる

偏った物的主観においては、必ず環境というメインをネグレクトしている

人為的な対話性ではない場合にも、客体の他者へとあてつけるケース

自然な対話性が人為的でない時には、その対話性が起きる必然として時間切れという点

例えば主体が害意形成で自身が搾取してきた規模を露呈する。それらは、環境へととりもどされなくてはならない、という点での対話性の発生の必然性を。状況から読み解き、それはとりもどされ、環境へ復元される。客体においての起点ではなく。

現実逃避をし排除態度をしたら、それはその者が行った排除態度と同じテーマにおいて環境からかえってくるだろう、というモチーフだ。

 

そして出来事は閉じられる

では、客体をも、環境をネグレクトした場合はどうだろうか。まだ、モラトリアムのときには、蓄積され保留していく。この時、言い方にもよるが、主体が客体に環境を裏切らさせている。または、環境を主体が騙し込んでいる。他にも解釈はあるが。

ただ、モラトリアムであったはずの客体が、自己を顧みて、環境側に付き、そうした害意ある主体のケースを覆していく様は、どういった感嘆表現が要るか。

(以上はまとめると、能動が悪しき主体・中動がわりと純粋な環境・客体が善かモラトリアム系)

 

なんで、日記なのに朝かいてんだよーと思いつつ。さみしいからかと自己分析。そうでもない。

クジラとか、ギリペンギンじゃね?と思いながら、、横向きと縦向きの違いくらいじゃん。言語とかもみてても、微妙な違いがいみあるのとないのあって、ないのとあるののちがいをないようにするのとあるようにするのとではちがいがある。がんばるとこそこか。

フランシスコなザビエルさんとかって、おそらく水平方向からの力を受けたのが、有名な絵面から洞察できるが、日本で?

縦軸からようやく横軸な視点をとりいれられつつも。「される」「された」とかの敬語とか謙譲語?尊敬語とかって、受動態?にも解釈できるし、こういうの中動態というのだろうか面白い。場をおさめる系って能動でも中動態ティックなかんじかもわからんし。これは、場をになう系の認知で、環境を擬人化して把握したりするテーマにも及ぶが。

区画という言い回しにあじをしめだすと問題あるけど、環境の心理的区画と、どこでもそれもってけんじゃんという点。それから天使というか、文化も区画把握など、精神的なマップを読む客観性が必要で。よくバイアスやフィルターをもっていると理解できなくなる界隈、なんだかんだマジメさ必須。

環境をになう主体の行いが、客体の主観では被や受動となる。被害妄想のケースとかあると、客観性て必須なのだ。あれ、2回言ったかも、必須と言う言葉、'使った'か。

磔刑のモチーフだと、被はマリアに担当されているかだろうかなあ。