なれあいか排除態度かの二面性て病質的だなあ思いながら
自分でのそういう面も見つめつつ
排他的な既得権益なんだかなぁ
排他という仕事を休みの時もしてるのだろうか
陰陽とかハートをシンボルよみつつ
みる、きく、よむ
ってあるし、環境をよむとか、場面で文脈をよむとか表現ある
図にしなくて説明できるやつは、なるべくして文章にするか
なるべくして、遊びの部分を残しつつ、余白というような表現だ
これで誰からも文句を言われることができる、ような条件て、好ましい条件では
にわか科学だから目的をきちんと見失わなくてはなあとか思いつつ
目的もにわか性も失ってしまっては、科学になってしまうだろうか
フォークロア、フィールドワークというマイルールでのしばりで書き、すでにそれも失っている
生活的にいえば、他者に対しての品性は科学的な態度だ
商品とかでも、情報や文化、背景をしると一気にかわったりする
いわばアクティベートされるのだというテーマ
これは、物が情報を含むとした言い方もできるモチーフでもある
カフェとかでコーヒーとか飲むときも、同じコーヒーでも落ち着きたいのか切り替えてめをさましたいのかとか、条件でアレンジしている生活者というのも、なるほど魔法使い
人間の体の分類というのは
精神、心理、物理、生命
(余談として用語的分類でよくでてくる言葉を羅列。命、魂、体、心、ソウル、ハート、マインド、ボディ、心技体は少し別角度か。あとエーテル、アストラルとかいくとオカルト用語的なときも。各探求角度からそれぞれの段階でのみなし方で提示されたものは星の数ほどある。自分では社会学的に平均的な言葉といったフィルターかフィールドでの用いて、自分のバイアスが混ざってたらもちろん偏りあるだろうので。あとスピリットとか、他にも色々。独自の用語とかつかってるタイプもあったり、、、)
ここで、「精神と心理」「物理と生命」に2:2でわけてみたときに、前者は物理体のない存在のイメージたとえば。それから後者は人間となる。
物的身体性に命というときに、命ということが単純に生き物であることをいうときには「生物」と言う限りというような扱いにもなる。ここで、厄介なのが、命という定義が、霊的な条件を含むのかどうか。
前提として、人間は成長の段階により、みにつけにも違いがあるということ。
・'理性的葛藤や努力により、精神性のみにつけや、肉体面の克服'というカテゴリが、生活的な健康のテーマにおいて社会的にどの程度認知されるのかどうかの課題がある(言い方でのつまずきなど)
ここで、文章長くなってきた次回にするか