一定の論理では。
自然条件を有害とみなすまでに自身で自身を悪化させたあり方がある場合に、'どうして自然に逆らってやっていけるのか、、、いいや やっていけない'という感想をもつものだが、実際にはやっていけてしまう条件がでてくる。'悪化条件がそのあり方にとってノーマルだから'というケース。
では、有害とみなされて排除されている自然側を保護するとしたカテゴリにおいて、次にどうなるかというと。生命倫理的には他生命との共生の足場を選んでいない条件というのが保護されるべき自然と対峙する。そのなかでも排他的で搾取者である一方にはすべてくいつぶすといった自滅のルートが見い出せる時には、彼ら自身ですら生き残るルートではないという事項がある。この事項に対して、自然側を保護するということは、彼らに対しての延命的でもある。自然側の"したたかさ"というものなのだろうか。
以上は、一定の現代的解釈。
保護された自然に主導権があり、そのことでかまってもらえている問題とされている側。
エビデンスないので自己責任で、みたいなテーマ。
セントジョーンズワートだったかな。ホメオパシーとかレメディ関連で知り、あとメリロートとか。ブログでも薬事的な注意項目てあって、NGというのか、妙な助長に表現がなってしまうと問題あるわけで。
思想的な条件のテーマもそうだから、ということを前提におりこみつつ。
メンタルかあと用語。セルフ、自我、個我、エゴ、アイデンティティ、プリミティブはまた別か、自分、私、、、。私と我のつかいわけで書くか。
あと性と生と聖。あと星くらいまでにしとくか。(seiという音で共通)
精神性:聖
心理性:性
身体性:生
生命性:星
ベーシックな対応としては。これは可変
自己愛性と心理性というモチーフからよむと
不当な自己愛性がならんでいる。自己による方針でどちらへかたむくか。
画像を三つ並べたいので、左右のほぼ関係ないので、真ん中の説明
悪い条件で、A非社会性(排他)、B不当自己愛性、C害意性、D侵害性(抑圧)としたとき、社会環境での悪化のながれでは各ペアの6段落をへていくながれをみた。独自の生態系をもっている。まるで。
けっこうホラー。
話とんで、ホメオタとかレメディとか探し、セントジョーンズワートとかしり、セイヨウオトギリソウだったかな。カインとアベルの旧約の話を思い浮かぶのだが、荒れ野つながりでいうと新約でのヨハネ(ジョーンズ?)とイエスのフレーズと対比してみて考えてしまった。新約聖書てマリアとマリアからの話ではじまっているようで百合とBLじゃんみたいな発想にサブカル的にはおよぶのだが。旧約て兄弟ばなしの前のフレーズでアダムとイブ。そのまえに天地創造か。新約では言葉とかロゴスとか。
四福音書により記述ちがうらしく、新訳は。グッドニュースな福音というのは、その立ち位置からのある意味都合の良いポイントを表現してるとして。
[星/性/生/聖]のさっき記した分類であてはめててらしあわせてみようかとか思ってしまった。
サブカルのモチーフで'神に逆らっても'といったニュアンスの表現であって、それって"かけあい"の意味合いにちかかったりするのだが。旧約とかも最近よみ、けっこうロックしてんだなあとおどろいた。