https://note.com/kind_hare745/n/n7873f775f0e7?sub_rt=share_b
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リンクどうやるのか
ノート様がわの記事より引用
自分hare745、引用許可、自分に
"量産品にオリジナルの一点があるのかどうか。量産品にするべき位置づけを、オリジナルの唯一をつくっては、弊害がある。かといってプロダクトの量産品のオリジナルというじったいはきわめて霊的なモデルの共有にあると言ってもいい。"
から続き、派生か
俗にいうツギギ?
単純には文脈の派生か。脈だけに。
血脈とかだとややややこしいさことあるべが、文脈とか霊脈なんかだと、なんでもありな方面もあるし
さて
物的的な継承によらず、なされた理念は心理化されて共有される。そのためのものなのだから。
というときには、はたされた以降、独占していたときの弊害とは。
自分ではデリカシーの範囲しか言ってきていない。
自然に対してのデリカシーのなさが、自然からのだいしょうとしてかえってくる。その範囲を言及してきてはいる思う。
自然が道徳原則を含んでいるという認知が前提にあって、言うまでもないことだと思っていたのかも。
悪の概念や、克服や葛藤、また償いの理念をふくんだ社会観を学ばないとリスクだなあと感じ、学んでいく。悪を身につけるといういみではなく。
善悪が表裏一体という言葉が、善は悪をしりながらも克服したすがたである、ことをいうならわかるきもする。悪は善を理解しない意味でも不完全だ、という見方。悪を理解するといっても、悪になるということではなく。
異種である人間を、おもうと、自然をけがしてしまえる点から明らかだともいえる。ただ、協調する学習へふつうむいている。地球上から異種である人間を想定したときには、自然界との共助的な枠を神さまがつくったなら神がかってるなあとおもうし、それで動植物側なども人間性という型から学習できるとかんじる、というのは和的な観念からかも。
で、協調を学習しない人間はことなる発展をえがいていく。けっこう岐路だとかんじる。社会条件も自然条件も抑圧侵害というあり方でいて、部外者なのだ。
物的証明によらず、搾取的なあり方のために搾取的に食というとき、かなりの別枠である。
とんで
フィールドワーク
区画という視点から
これは対象によらずモチーフでの継続や連綿生活を考える
シオリということ
たちどまったところからつづきをできるとき、地理的に同じ条件ではないこともある